わたしたちはすべての人に、地方召会のすべてのクリスチャンが、共通の信仰に対して絶対的であって、最も正統的なクリスチャンであることを、知っていただけたら幸いです。
わたしたちは主イエス・キリストを、わたしたちの主また救い主として受け入れました。主イエスはわたしたちの命として、わたしたちの中に生きておられ、わたしたちのすべてとなっています。わたしたちは主を愛し、主に仕えるだけでなく、他の多くの人が主イエスを実際に経験的に知ることを助ける願いを持っています。わたしたちは主イエスを信じ愛するクリスチャンたちと共に集会しており、何の宗派の背景もありません。なぜならわたしたちは、キリストのからだの一の証しをすることを目標としているからです。
わたしたちはすべての主イエスを信じる人たちを歓迎し、キリストにあるわたしたちの兄弟姉妹としての交わりをしたいと思っております。わたしたちの真実な願いは、この地上での主イエスの証しが拡大し、大いに強められて、主の花嫁が備えられ、主の再来を早めることです。主がこの時代に、この地上でのご自身の働きに誉れを与え、立証してくださいますように。
もちろん、大丈夫です。今いる方々も初めて教会に来られた時は、ほとんどの人がクリスチャンではありませんでした。一歩目は勇気がいるかと思いますが、わたしたちも温かく歓迎したいと思いますので、どうぞお気軽にお越しください。一度来たら、来続けなければならないこともありませんので、ご安心ください。
教会の人に初めて来たことを伝えてくだされば、ご案内します。そのまま集会所に入ってくださっても構いませんし、お声をおかけくだされば、教会や集会についてご説明いたします。
貸し出し用の聖書や詩歌がありますので、手ぶらで来ていただいて構いません。服装の決まりはありませんので、普段着で大丈夫です。
強制はしませんので、ご安心ください。なぜなら、信仰は強制されるものではなく、自ら選ぶ事柄であるからです。
献金を強制されることもありません。わたしたちは献金袋を回すこともありません。献金は神に対して自発的に隠れて行なうものですので、各自の信仰に任せられています(マタイ6:1-4)。
一つは永遠の滅びからの救いです(ヨハネ3:16)。永遠の滅びというのは、世間では地獄と言われているもの、聖書では火の池と呼ばれているものに永遠にわたって入れられることです(啓示録20:15)。これは第二の死とも言われています。だれでも主イエスを信じることにより、この事から永遠に救われます。
もう一つの救いは日ごとの救いです。神の命を受け、この命を成長させることにより、日常生活の中でさまざまな消極的なものから救われ、積極的なものを与えてくれます。この救いは、罪、短気、不安、悩み、憎しみ、不満、口論などから解放し、喜び、愛、満足、知恵、思いやりなどを与えてくれます。
沿革=「○○に在る教会」とは、分派(教派)、組織・伝統を嫌うキリスト者たちが、純粋に聖書の模範に従い、日本では1954(昭和29)年頃から、それぞれ地元に在って一つである立場に立って集まるようになった教会です。本部を持ちませんし、何一つ永久的な職位、組織化された指導権もありませんし、どんな階級制度も、準頭者も、中間者も認めていません。聖徒たちはみなお互いに兄弟姉妹としか呼び合っていません。現在70数都市にこのような教会があります。なお、「地元にあって合一である立場に立つ教会」とは、説明のことばです。名称ではありません。(出典:2018年キリスト教年鑑、p.121)
聖書はわたしたちの唯一無二の標準ですので、わたしたちは聖書の中で罪定めされている分裂の立場や独自の名称(それが聖書の真理であれ、偉大な人物であれ)を取ることはしたくありません(Ⅰコリント1:10-12)。聖書の中の教会の立場は、「アンテオケに在る教会」(使徒13:1)や「エペソに在る教会」(啓示録2:1)などと書かれているように、地方都市がその立場であることがわかります。このゆえに、市川市に住んでいるわたしたちは聖書で示されている模範にしたがい、「市川に在る教会」として教会生活を行なっています。
また、使徒の時代の初期の認識と実行によれば、教会は建築物を指すのではなく、その地方都市に住むすべてのクリスチャンを指していました。わたしたちは主イエス以外の名前を何も掲げない、市川にある「教会」であることを神の御前で望んでいます。そして、ヒラデルヒアに在る教会のように、少しばかりの力をもって、主の言葉と主の御名を否まずに、主に喜ばれる者となることを願い(啓示録3:8)、共に神の住まいとして建造されていくことを目標としています(マタイ16:18、エペソ2:21-22)。
日本語で「教会」というと、とんがり屋根に十字架のついている建物を創造する方が多いのではないでしょうか? あるいは、漢字の意味から見ても、「会衆に教える」というイメージになりますよね。でも、この言葉のギリシャ語原文は「エクレシア(ekklesia)」という言葉で、「ek(~から)」と、「kaleo(召された会衆)」の派生語から成っています。ですから、原文どおりの意味は、「召し出された会衆」、つまりこの世から救われたクリスチャンの集まりのことを指しているのです。だから、わたしたちは真理の意味が正確に伝わるように「召会」という言葉を採用しています。
教会という言葉が最初に使われたのは西洋の宣教師たちが日本に来た時でした。彼らは、信者の集まりを教会、すなわち、宗教の集会と呼びました。それにあたる英語はchurchです。ある辞書はそれを礼拝堂(クリスチャンの集まる場所)であると言っています。また、ある辞書はクリスチャンが一つの団体であり、その名称がchurchであると言っています。
A.D.1828年、宗派の立場から出て来た一群れのクリスチャンたちから成るブラザレンが英国で起こされました。その中で先頭に立ち、主に大いに用いられたジョン・ネルソン・ダービーはこの啓示をはっきり見て、彼の訳した聖書では「church(教会)」ではなく「assembly(集まり/会衆)」という言葉を使いました。それはクリスチャンの集まり、すなわち、召会を指します。20世紀に至って、中国圏の海外では召会という言葉を使うクリスチャンが増えてきていますが、日本でこの真理を見て、この言葉を用いている群れはわたしたち以外にほとんどいないのが現状です。
「主日(Lord’s day)」という言葉は、聖書の中で一回だけ使われています。使徒ヨハネは啓示録第1章10節で、「わたしは主日に霊の中にいた」と言っています。主日は初めの日であり、週の初めの日は主の復活の象徴です。なぜなら、主イエスは週の初めの日に死人の中から復活されたからです(ヨハネ20:1)。わたしたちは聖書の啓示にしたがって、日曜日ではなく主日という呼び方を好んで使っています。
わたしたちの召会には専門職としての牧師や神父はおりません。その理由はこちらのブログをご参照ください。
わたしたちが地方召会の中にいるのは、神の回復のためです。わたしたちの証しを正しく理解するために、わたしたちは「回復」の基本的な定義を以下のとおりにします:
1.回復という語は、失われていたあるものをもう一度獲得する、あるいは損傷を受けたものを正常な状態へ回復することを意味します。神がある事柄を回復しておられるということは、ある事柄が教会歴史の過程で、失われ、誤用され、腐敗させられてしまったということ、そして、それを神が当初の状態へと回復しておられるということを意味します。
2.教会は数世紀にもわたる歴史を通して堕落してしまったので、神の当初の意図にしたがって回復される必要があります。教会に関してわたしたちが見たビジョンは、現在の状態や伝統的な慣行には支配されていません。わたしたちが見たビジョンは神の当初の意図により、また神の御言葉の中に啓示されている不変の標準によって支配されています。わたしたちは、教会に関する新約聖書の啓示を単なる歴史上の事例とは考えず、現在の教会の実行の模範と考えています。
3.神の回復は二十世紀に始まったのではありません。開始の正確な日付を決定することは困難ですが、カトリックの腐敗からのマルチン・ルターによる改革の時(宗教改革)とするのが妥当です。回復は改革の時から数回の段階を経て発展してきました。ジンゼンドルフ(Zinzendorf)の指導の下で、ボヘミアで教会生活が部分的に回復されました。プリマス・ブラザレン(Plymouth Brethren)が、ジョンネルソン・ダービー等の導きの下で数多くの貴重な聖書真理を解明し、内なる命の真の経験へとさらに進みました。今やこの回復の動きは、キリストのからだの表現である真の地方召会の建造という段階に達しています。
4.今日、主は彼の回復の中でおもに二つの事を行なっておられます。一つは、キリストのさまざまな豊富の経験を回復すること、すなわちわたしたちの命またすべてとしてのキリストの享受を回復することです。もう一つは、教会生活の実行を回復することです。実際的な教会生活は、キリストのさまざまな豊富を享受することから出て来ます。主の回復の中にいるわたしたちは、キリストが計り知れない豊富を持つ方であり、わたしたちの享受のためにすべてを含む方であることを証しします。そして、神の純粋な言葉の啓示にしたがって教会生活を実行する負担を、主がわたしたちに与えてくださったことを証しします。
参考:主の回復の歴史