"あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを心配してくださるからです"
ーⅠペテロ5:7
アメリカ合衆国の西部に、ある大学教授がいて、彼はいつも悲しんでおり、落胆する言葉を話していました。これが、彼の同僚を彼から引き離しました。ある日、天気がとても良く、多くの年少の同僚たちが彼に言いました、「今日は太陽がとても輝いており、鳥のさえずりはとても甘く、花は新鮮に見えます。あなたにはこれらの光景について、何の不平もないはずです」。彼は周りを見回して、何の不平もないことに納得しました。ところが、彼は不平をやめたでしょうか? 違います。彼はさらに見た後、「この光景は長く続かない」と言いました。ああ、多くの人はこの人のようです。彼らは神に対する感謝の心を決して持っていません。ただため息をつき、つぶやき、悲しみ、重荷を負うだけで、決して感謝の心を持ちません。
"あなたがもし、自分には重荷と思い煩いがあると言うなら、
主があなたの罪を十字架上で担ってくださったことを、認識しなければなりません。
彼はあなたの悲しみ、困難、思い煩いを担ってくださらないでしょうか?"
鉄道の駅で働いているあるクリスチャンがいました。彼は病気であっても健康であっても、環境が良くても悪くても、いつも神に感謝していました。彼の同僚たちはみな、彼が楽天家であると言いました。ある日、彼が線路を修理していると、列車が彼の足の上を通り、彼は失神してしまいました。彼が気づいた時、人々は彼がまたも神に感謝しているのを聞いたのです! 彼らは怒り、彼の足の一本が切断されてしまったのに、どうしてなおも神に感謝することができるのかと思いました。彼は言いました、「神に感謝します。わたしには、まだもう一本の良い足があります!」。あなたは病気であっても、まだ生きています。あなたは貧しくても、絶望的ではありません。あなたは粗末な服を着ていても、まだ身に着けるものがあります。あなたの家は小さくても、まだ枕する所があります。あなたは神に感謝する機会を求めることを学ぶべきです。そうすれば、あなたに思い煩う理由があっても、思い煩う機会はないでしょう。毎回、あなたは自分の思い煩い、重荷を神に明け渡す時、喜ばないわけにはいきません。あなたがもし、自分には重荷と思い煩いがあると言うなら、主があなたの罪を十字架上で担ってくださったことを、認識しなければなりません。彼はあなたの悲しみ、困難、思い煩いを担ってくださらないでしょうか?
"神は思い煩いを担われる神です"
ペテロの第一の手紙第5章7節は言います、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」。神はわたしたちのいっさいの思い煩いを、彼に明け渡してもらいたいのです。なぜなら、彼はわたしたちのことを心配してくださるからです。彼はわたしたちの重荷を担いたいのです。「心配」の原文は、同じ節の「思い煩い」と同じ語根です。両者は文法の形態が違うだけで、神がわたしたちの思い煩いを担い、わたしたちのために思い煩いを取ってくださることを意味します。ですから、わたしたちは思い煩ってはいけないのです! 多くの人は、喜び、贈り物、友情、その他の事柄を受けようとして招きます。彼らは他の人から得ることを期待しているのです。ところが、わたしたちの神は、わたしたちが彼に喜び、善、友情を与えるために招いておられません。神は、わたしたちが彼の御前に来て、わたしたちの思い煩いを彼に明け渡すように招いておられます。神は思い煩いを担われる神です。彼はわたしたちに、自分の重荷を彼に置くようにと招いておられます。彼にとって、これは困難ではないのです。イザヤ書第53章4節は、主イエスが「私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」と言っています。
"神があなたに求めておられるのは、
良いものではなく思い煩いや心配を持って来ることです"
もしあなたが自分の身近な問題、家庭の崩壊、子供が道徳的に堕落して主から離れること、事業の失敗、姻戚間の不和、他の人の救い、神の子供たちの後退し堕落した霊的状態について心配するなら、神はあなたに、自分の思い煩いを彼に明け渡してもらいたいのです。このような状況の中で、神はあなたが彼に来ることを求めておられます。神があなたに求めておられるのは、良いものではなく思い煩いや心配を持って来ることです。彼はあなたの思い煩いを担ってくださいます。砕かれた心、重い心、痛みのある心を持っている人はみな、神に来なさい! 今日あなたはもはや思い煩う必要はありません。これが福音です。
(ウオッチマン・ニー全集、第18巻、「何事も思い煩ってはならない」より抜粋)
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