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主の回復の歴史|History of the Lord's Recovery

 

"…初めからそうだったのではない。"

マタイ19:8

 

初期の時代

 主イエス・キリストは地上で務めを行ない、十字架上で死んで贖いを完成し、三日後に復活した後、弟子たちに現れて、ご自身を聖なる息として彼らの中に吹き込まれました(ヨハネ20:22)。その後、弟子たちはエルサレムにとどまり、聖霊を着せるという御父の約束の成就のために十日間一つ思いで祈りました(使徒1:8,14) 。その結果、ペンテコステの日に聖霊が彼らの上に臨み、彼らは上からの力を受けて、主の証し人となり、使徒行伝が開始しました。ペンテコステの日に、ペテロの宣べ伝えを通して約三千人の人が救われ、エルサレムに在る教会が生み出されました。その後、福音は使徒ペテロの務めを通してユダヤ人世界へと広がり、その後、使徒パウロの務めを通して異邦人世界(アンテオケ、小アジア、ギリシャ、ローマ)へと広がりました。パウロは神の選び器として、キリスト、その霊、教会に関する神のエコノミーの啓示を受けて、神の言葉を完成する者となりました(コロサイ1:25)。パウロの務めの終わり頃から、異なる教えや異端が教会の中に入り込み、教会が衰退していく中で、十二使徒の中で地上に最後に残された使徒ヨハネは、教会の破れ目を彼の務めの中で命の方法で繕いました。使徒行伝の書には、結論の言葉がありません。これは、使徒たちの行動が終わっておらず、今日も地上の信者たちを通して継続していることを示します(使徒28:31)。

 

中世の時代

 A.D.476年に、西ヨーロッパの最後のローマ皇帝がゲルマン民族によって退位させられました。それは、中世の時代の開始でした。この時代は、歴史家たちによって「中世の時代」あるいは「暗黒の時代」として知られています。なぜなら、この時から約千年の間、聖書は一般の民に対して閉ざされ、神の光の言葉が封じられたからです。中世の教会は、おもにローマ・カトリック教会であり、それはジョージⅠ世が法王の座に着いたA.D.590年に正式に始まりました。

 

改革の時代

 宗教改革は1517年10月31日に公に始まりました。その時、マルチン・ルターは、彼の有名な「95箇条の論題」をドイツのウィッテンベルグの教会の扉に張り出して、ローマ・カトリック教会の贖宥状の乱用を罪定めし、それらの事柄に対して議論し立ち向かいました。これがプロテスタント教会の開始です。マルチン・ルターは神の偉大なしもべでした。主は彼を用いて、信仰による義認についての真理を回復し、開かれた聖書を一般大衆に与えました。ところが、ルターは教会についての真理に来た時に弱くなり、教会生活を持つという神の真の意図に、わたしたちを連れ戻しませんでした。かえって、ルターは政治の力を教会にもたらし、そうすることによって教会の助けになると考え、国家教会をもたらしました。

 

奥義派

 歴史はわたしたちに、改革の教会、特に国家教会が、ついに死んだ宗教になったことを告げています。第17世紀に、主は改革の教会の死と形骸化に対する反動として、一群れの聖徒たちを起こされました。ガイオン夫人、フェネロン神父、ブラザー・ローレンスのような奥義派の人たちは、内なる命の経験を回復することで主に用いられました。これらの聖徒たちは、依然としてローマ・カトリック教会にとどまっていましたが、命とはその霊による御子の中の神ご自身であることを認識し始めました。これらの聖徒たちは、内なる命であるキリストについて幾らか知ったとはいえ、彼らには実行的な教会生活はありませんでした。彼らは依然として、ローマ・カトリック教会の領域内にありました。

 

モラビア兄弟団

 第18世紀に、主はジンゼンドルフ伯爵の指導の下にあったモラビア兄弟団の間で動いて、教会生活の実行の一部を回復されました。これらのモラビア兄弟団は、ローマ・カトリック教会だけでなく、国家教会からも迫害を受けました。彼らは真理に立ったために迫害されました。そして彼らはサクソニーのジンゼンドルフの領地に、保護を求めて逃れました。ジンゼンドルフ伯爵は、主に対する愛のゆえに、さまざまな背景から来たこれらの追い求める者たちの多くを受け入れました。これらの兄弟たちは、彼らの教理上の違いから争い始めました。ある日、ジンゼンドルフ伯爵は、協議会を召集して、彼らにそれぞれの教理上の異なる意見を落とすよう説得しました。彼らは、彼らの間の一致を保ち、自分たちの教理上の違いや宗教的背景の違いを放棄する、という協定に署名しました。その後、彼らが主の食卓についていた時、聖霊の注ぎを経験しました。その時までの教会歴史史上、最も強力なリバイバルが彼らの間にありました。そして彼らは、地上での最も有力なクリスチャングループの一つとなりました。

 

ブラザレン

 19世紀、1825年から1828年に、主はジョン・ネルソン・ダービーの指導の下にいわゆるブラザレンを興されました。D・M・パントンは、「ブラザレンの運動とその意義は宗教改革よりはるかに偉大であった」と言いました。宗教改革は、幾らかこの世的でした。なぜならそれは、人の政府と連合していたからです。ところがブラザレンの間の動きは、真に霊的なものでした。ブラザレンは、教会の天的召しと教会の一を回復し、宗派的な組織の間違いを見ました。また、唯一無二のキリストのからだがあること、すなわち、教会は人の意見によって形成されるのではなく、聖霊の直接の導きの下にあるべきであることを認識しました。主は彼らを通して多くの聖書真理を回復しました。根本主義的なキリスト教神学の90パ―セント以上は、ブラザレンの教えから来たと言われています。

 

内なる命

 19世紀初頭から20世紀初頭にかけて、さまざまな追い求める敬虔なクリスチャンを通して、主はキリストを命として経験することを回復されました。その中で代表的に用いられたのは、ロバート・P・スミス(献身による聖別)、アンドリュー・マーレー(キリストに住む、キリストの御霊、至聖所、自己を否むこと)、ジェシー・ペンルイス(十字架の経験、霊的な戦い)、エバン・ロバーツ(王国の真理とウェールズの大復興)、T・オースティン・スパークス(復活の力、教会生活、キリストのからだ)、M・E・バーバー(霊的命の経験)などがいます。M・E・バーバーは、福音の働きのために中国へ遣わされ、後に宗派を離れ、主の召しに応じて、中国の地で一粒の麦となりました。

 

現在の主の回復

 ブラザレンの動きが始まった百年後に、主は中国本土で新しい事を開始されました。主は二十世紀の初めに、中国に行かざるを得なくされました。なぜならヨーロッパもアメリカも、正当な教会生活に関する限り、その地、土壌が、完全に汚染されてしまっていたからです。教会生活に関して、中国は処女地でした。中国における主の回復の最初の集会は、1922年、ウオッチマン・ニーによって、彼の故郷、福州で始まりました。

 ウオッチマン・ニーは各世代にわたる回復の結晶を受け継ぎ、聖書の中心的な啓示を完全に明らかにしました。それらは、救い、教会、命としてのキリスト、キリストのからだに関する啓示であり、彼は聖徒たちを導いて神聖な啓示を実行させました。彼は、中国で四百以上の教会を興し、後に主のために投獄され、殉教しました。彼の務めの豊かさは、出版物を通して世界の国々に広まり、中国のみならず海外にも深い影響を及ぼしています。

 ウオッチマン・ニーの同労者であるウイットネス・リーは、ニーが主から受けた務めを継承し、それをさらに発展させ、神の永遠のエコノミーに関する聖書の高い啓示を解き放ち、神のエコノミーの究極的な目標を提示しました。それは、神が人と成ったのは、人が神格においてではなく命と性質において神となり、キリストのからだを構成して、新エルサレムにおいて究極的に完成されるということです。新エルサレムは、神と人の宇宙的で団体的な結合、ミングリング、合併です。彼は現在の主の回復を神聖な啓示の最高峰までもたらしました。そして、地上の六大陸に二千以上の教会を興し、拡増開展の高嶺に到達しました。

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