わたしは東京で四人兄弟の次男として生まれました。小さい時は、親に連れられて教会に行っていました。わたしは神に対して嫌な印象はありませんでしたが、神がなくても十分に楽しかったので、自分には必要ないと思っていました。……
救われた喜びの証
生い立ち
わたしは東京で四人兄弟の次男として生まれました。小さい時は、親に連れられて教会に行っていました。わたしは神に対して嫌な印象はありませんでしたが、神がなくても十分に楽しかったので、自分には必要ないと思っていました。
青年期
高校三年までサッカー漬けの毎日でした。とても充実していましたが、自分の能力の限界もよくわかっていたので、真剣にやるのは高校までと決めていました。大学で、サッカーをやめたら時間ができたので、バイトを始めました。バイトでお金を得たので、ファッション、バイク、スノボ、マージャンなどに使ったり、飲み会やカラオケに行ったりしました。やりたいことをほとんどすべてやりましたが、心の中ではよく、「あと何回やれば満足するんだろう? 人生なんてこんなもんか…」と思っていました。心にポッカリ穴が空いてしまったような感覚でした。
大学に行けばやりたい事がきっと見つかると思っていましたが、結局三年になっても見つからず、将来を思うと不安でした。そんな中、ふとしたきっかけで大学三年の夏休みにインターンシップにエントリーしました。その経験を通して、このグローバルな時代に英語は不可欠と強い思いを受け、留学を決意しました。親の理解と協力を得て、アメリカに留学が決まりました。わたしは、クリスチャンの人たちとシェアハウスで住むことにしました。理由は、知らない人と住むよりかは安心だと思ったからです。
転換点
わたし最初、ビザの関係で帰国していた人のスペースとベッドを使わせていただけることになりました。二週間ほどして、その人が突然帰って来ました。わたしは驚き、見知らぬ男が自分のベッドで寝ていて怒るのでは?と思い、すぐさまベッドを整え、片言の英語で謝り、事情を説明しました。すると、その人は怒るどころか、「どうぞ、そのまま使ってください。僕はソファで寝ますから」と言いました。わたしは正直、その言葉に驚きました。翌朝、彼はわたしのためにチャーハンを作ってくれました。親元を離れ、料理ができず、毎日シリアルしか食べていなかったわたしにとって、それはとても感動的な美味しさでした。つたない英語で何とか感謝の気持ちを伝えたところ、彼は、「わたしに感謝しなくていいですよ。その代わり、あなたが同じような人を将来見た時、同じことをしてあげてください」と言われ、さらに感動しました。クリスチャンってなかなかいいなと思った瞬間です。
わたしは生まれて初めて聖書を読んでみました。最初は意味が全くわからなかったのですが、とにかく読み進めました。クリスチャンの集会にも参加したり、詩歌と呼ばれる歌を歌ったり、聖書の話を聞いたりして、とても楽しかったです。ある日、集会から自分のアパートに一人で帰っていた時、自分がスキップして、集会で歌った歌を口ずさみ、喜びに満たされているのに気づきました。その喜びは今まで経験してきたものとはどこか違う感じでした。それは内側から湧き上がるような、とても純粋な喜びでした。その時、自分の心にポッカリ空いていた穴が塞がっているのに気づきました。
聖書の中で主イエスが語られた一つの言葉があります。その言葉は、まさにわたしの状態を言い表したような言葉です。「この水を飲む者はだれでも、また渇く.しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して永遠に渇くことはない.わたしが与える水は、その人の内で源泉となり、湧き上がって、永遠の命へと至るのである」(ヨハネ4:13-14)。この言葉は真実です。それ以来、この喜びは止まることはありません。クリスチャンになったことを一度も後悔したこともありません。素晴らしい仲間にも恵まれました。イエスと出会えて、クリスチャンになれて、わたしは本当に良かったです。(K.K.兄弟)
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