「あなたはニコライの者たちのわざを憎んでおり、わたしも憎んでいる。」
啓示録2:6
口語訳聖書にも新改訳聖書にも、エペソ人への手紙第4章11節に「牧師」という言葉があります。牧師と訳されているギリシャ語は新約聖書の中で18回使われています。ここだけ牧師と訳されています。他のところでは、「牧者」や「羊を飼う者」や「羊飼」と訳されています。
口語訳と新改訳の以下の箇所での訳を見てみましょう:
口語訳/新改訳
マタイ9:36 飼う者/羊飼い
ヨハネ10:2 羊飼/牧者
ヨハネ10:11-14 羊飼/牧者
へブル13:20 牧者/牧者
なぜ同じギリシャ語なのに、口語訳も新改訳もエペソ4:11のところだけ「牧師」と訳されているのでしょうか?
これは実はプロテスタントの牧師制度に影響されたからです。プロテスタントは宗教改革の時、ローマ・カトリックの神父と区別するために、ラテン語 「pastor」を使いました。ラテン語 「pastor」の意味は「牧者」あるいは「牧する者」です。特に羊の群れに草を食べさせ、羊を飼う者を指しています。しかし、その後、ラテン語 「pastor」は英語圏で使われるようになりました。日本語の翻訳者はプロテスタントの牧師制度に適合させるために「牧師」と訳しました。また、中国の和合訳の影響を受けたところもあるかもしれません。
啓示録第2章6節で主は言われました、「しかし、あなたにはこのこともある。あなたはニコライの者たちのわざを憎んでおり、わたしも憎んでいる」。エペソに在る召会は、主が憎まれるもの、すなわちニコライの者たちのわざを憎みました。美徳に関する限り、エペソに在る召会は良く、純粋で、正当で、正常でした。
主はニコライの者たちのわざを憎まれます。ニコライの者たちのわざとは、聖徒たちの間の聖職階級制度です。それによって、ニコライの者は人を支配する地位に自分を置く者たちです。これは、聖職者と平信者という結果になります。エペソに在る召会には、ニコライの教えはありませんでしたが、ニコライの者たちのわざと活動、すなわち、ある種の聖職者と平信者の階級制度がありました。これが後に発展することになったのです。
ニコライという言葉は、ギリシャ語のニコライタスと等しく、語根はニコラオスで、二つの言葉から成っています。一つは「ニコ」であり、この言葉は「征服する」あるいは「勝利する」を意味します。もう一つは「ライタス」であり、この言葉は「一般の人々」、「世俗の人々」、「平信者」を意味します。ですから、ニコライは「一般の人々を征服する」、「平信者の上で勝利する」を意味します。「ニコライの者たち」は、一般の信者たちよりも自分を一段と高く見なす者たちの群れを言っているに違いありません。これは疑いもなく、カトリックとプロテスタントによって受け継がれ、確立された聖職者階級制度です。主はこれらのニコライの者たちのわざと振る舞いを憎まれます。ですから、わたしたちも、主の憎まれるものを憎まなければなりません。
神は彼のご計画の中で、すべて彼の民がご自身に直接仕える祭司となることを意図されました。出エジプト記第19章6節で、神はイスラエルの子たちを、祭司の国となるように定められました。これは、彼ら全員が祭司となることを神が望まれたことを意味します。しかしながら、イスラエル人は金の子牛を拝んだために(出32:1-6)、祭司職を失いました。そしてレビの部族だけが、神に対する忠信のゆえに選ばれ、神の祭司としてのイスラエル全国民に置き換わりました(出32:25-29、申33:8-10)。こうして、神とイスラエルの子たちの間に中間階級ができたのです。これがユダヤ教では、一つの強力な制度となりました。
新約において、神はご自身のエコノミーにしたがってご自身の当初の意図に戻り、キリストにあるすべての信者を祭司とされました(啓示録1:6、5:10、Ⅰペテロ2:5、9)。しかし初代の召会の終わりごろ、第一世紀においてさえ、ニコライの者たちが中間階級として入り込み、神のエコノミーを台無しにしました。召会歴史によれば、その中間階級をローマ・カトリックが採用し、プロテスタントが継続して制度となりました。今日、ローマ・カトリックには司祭制度があり、国立教会にも聖職者制度があり、プロテスタントの教会にも牧師制度があります。これらはすべて中間階級であり、すべての信者による万人祭司の真理を損なうものです。こうして、二つの明確な階級、聖職者と平信者があるようになってしまったのです。しかし正当な召会生活には、聖職者も平信者もあってはなりません。すべての信者は神の祭司であるべきです。中間階級は、神のご計画における万人祭司を破壊するので、主はそれを憎まれます。
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