私は母がクリスチャンであったので子供の頃から神のことを知ってはいました。 たぶん神がいて、神は私のことを知っていて、私は神に祈れることも知っていました。子供の頃は母に連れられて、クリスチャンの集まりである集会にも行っていましたが、中学生になると時間もなくなり全く行かなくなりました。
それ以降、神から離れて主の御名(神を呼び求めるときの名前)である「おお、主イエスよ」もほとんど呼ばなくなりました。ただ困った時のお願いと嫌なことがあった時の神に対する文句は言っていました。
そんな私ですが子供が産れて子供のことを思った時に、とても自分では子供を守りきれないと感じたので神に頼るしかありませんでした。幸いに、結婚して住んだ市川には若いクリスチャンの姉妹が多くいて、私は神のことを深く知りたいと思った訳でもないのですが、子育て中で時間もあり、姉妹たちも優しく、集まりも楽しかったのでよく集会に参加していました。
2人目を妊娠して、実家に帰っているときに、それまで母と一緒に集会に行くなんて絶対に嫌だと思っていましたが、市川で集会に参加していたのと2人目も産まれるので、実家での集まりがあった時に少し参加してみようと思い、母もそのつもりで準備していました。でも姉妹たちが家に着く前に、私の体調が悪くなり別の部屋で休むことにしました。母に言ったら、「あーあ、サタンにやられたね」とか「集会に出れば治る」とか「祈りが足りない」とか言われると思い嫌だなあと思いました。実際にそう言われたのか、ただ自分でそう思っただけなのかよく覚えていませんが、そう思いながら横になり休んでいました。横になりながらも、「なんで神はサタンより強いはずなのに、サタンが勝ったのだろう? せっかく集会に出るつもりだったのに、どうして主はそうさせないで、サタンに私の具合を悪くさせるのを許したんだろう…」と思いながら眠りました。
そしたら夢の中でよくわかりませんが、神のような人がとっても温かい雰囲気の中ではっきりとした言葉でないのですが、「何を言っているの~あなたが味わいたい、享受したいと願えばいくらでもさせてあげるよ」と言われているのがわかりました。その頃は聖書の言葉を全く知らなかったので、神が何と言ったのかはっきりとはわからなかったのですが、 その雰囲気は全く私を責める感じはありませんでした。
夢からさめて私は本当に神のことを誤解していると感じました。神は私を責めるのではなく、私に与えてくれる神であることがわかりました。自分ができないのは自分に足りないからだとよく思いますが全くその通りです。わたしたちは愛にも聖にも義や勤勉さにおいてもすべてにおいて欠けており、神に対する信仰においても全て欠けている者です。神はそんなこと良く知っています。
でも神はわたしたちのことを深く愛しています。
こんなに反抗的で反逆的な私ですが、それでも何とかして神に戻るようにと、神を信じられるようにと何度も私に現れてくださいました。主に行きさえすれば彼は私たちの中に入ってきてくださいます。
私はあの時、神に祈ることも、聞くこともしませんでしたが、神のことを思っただけで、神は私に現れてくださいました。神に対して向きを変え、神に対する少しのすき間があれば、神は光として私たちの中へと入って来ることができます。私たちが信じている神は信実な方であり彼の中には何の偽りもありません。彼に行きえすれば彼は豊かに私たちに答えてくださいます。
ローマ人への手紙第10章8節は言います、「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。言葉としてのキリストは私に近く便利なお方です。いつでもどこでも呼び求め、あらゆることを告げることができます。そして彼は私たちの弱さに同情することのできる方であり、全く信頼に値する方です。彼に告げたことはむなしく帰ることはありません。
私は神に深くあわれまれた者です。神に対する熱心な思いも探究もありませんでしたが、神のあわれみにより、神の言葉を喜び、神を深く知りたいと願うようになりました。まだまだ多くのことで神を悲しませることが多いのですが、神は私を愛しています。主は私を決して離しません。「神はすべての人が救われて真理の全き知識へ至ることを願っています」(Ⅰテモテ2:4)。神は最も誤解されている方ですが、彼は私たちに対する愛で満ちています。みなさんも神に向きを変え、少しでも心を開き真実な神に出会うことができますように。
N.Y.姉妹
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