私の両親はクリスチャンです。両親は私に聖なる光のようになってほしいという願いがあったので聖光という名前を付けてくれました。しかし、私はそのような子ではありませんでした。逆に、高校の時、不良になり、ある意味では暗い人生を過ごしていました。両親は言葉で言い表せないほどがっかりしてしまいました。
私は約18年前に日本に留学に来ました。日本では、親から遠く離れた私は、あまり教会に行かなかったし、祈ることもあまりしませんでした。ある日、私の人生を変える出来事が起こりました。それは、アルバイトをしていたときに不注意で手をやけどしてしまったということです。それで、一か月間、バイトを休まなければいけませんでした。時間ができたので教会のホームミーティングに参加し始めました。そこで私は兄弟姉妹の愛を感じました。ご飯もおいしかったのです。毎回、内側も外側も満足でした。不思議なことに、そこで、安らぎ、憩えました。それ以降、今日に至るまで、教会の集会に参加するのと聖書を読むのと、祈るのと詩歌をうたうことがわたしの人生の一部になりました。一言で言えば、主イエスが私の生活に入ってきました。それに伴って、私も私の生活も私の家族も積極的に変わってきました。
こちらで一つのことをシェアいたします。
私の父は心配性です。昔、ある事が起こったのを今も覚えています。特に大きなことではないのですが、母は熟睡していましたが、隣の父はそれが気になって眠れませんでした。遺伝のせいか、私も心配しがちなタイプです。何かがあると、それが頭の中で、どうしようもないぐらい膨らんでいきます。それはよくない、いけない、心配したら逆に良くないと思いますが、そして、意志を活用して、心配しないぞと決定しても、思いは全然言うことを聞かないで勝手にそのことを思い出し、心配し始めるのです。それで私はかなり大変な時期がありました。
しかし、主イエスが私の生活に入ってきてから、聖書読むことなどが私の生活の一部となってから、気づいたら、心配しがちな自分がいなくなりました。その代わりに、よく笑える自分、時に、大声で笑える自分がいるようになりました。聖書を読むと、聖なる光が私の中に入り、暗闇は一掃されます。詩歌を歌うと、生活にすごく喜びあります。時には、歩いている時も、内側から喜びが湧いてきます。
今、コロナ禍で、いろんな消極的なニュースが耳に入ってきます。昔の私なら、ひっきりなしに心配していたと思います。そして、心配の挙句、どこにも行かず、家に引きこもってしまっていたと思います。しかし、それは昔の自分です。今は今です。主イエスの故に、今の私があるのです。電車通勤ですが、心配はありません。代わりに日々、望みを感じ、平安があり、ハッピーです。これは私が何かすごいからということではありません。これは主イエスのおかげです。先ほどの詩歌のように(下記のリンクを参照)、主イエスは弱さに同情されるお方です。 昔の自分は不良で、心配しがちな者でしたが、主イエスは私を見下さず、代わりに、愛の中で、私の弱さを同情され、私を受け入れて、私を積極的に変えて下さいました。主イエスに感謝します。
へブル人への手紙4:15-16 わたしたちの大祭司は、わたしたちの弱さに同情することのできない方ではなく、罪のないことは別にして、すべての面でわたしたちと同じように試みられたのです。ですから、わたしたちがあわれみを受け、また時機を得た助けとなる恵みを得るために、大胆に、恵みの御座に進み出ようではありませんか。
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