私は弟二人の五人家族で、群馬県の山と川のある町、沼田という所で育ちました。
小学生の頃はいつも通知表に「もっと積極的になるように」と書かれた引っ込み思案の内向的な子供でした。
高校一年生の時、友人の紹介でイギリス人宣教師ターナーさん一家(子供四人)と出会ったことがクリスチャンになるきっかけでした。
それまで聖書を読んだこともなく、確かクリスチャンに出会ったこともなかったので、彼らとの交わりはとても新鮮でした。彼らの家に遊びに行ったり、若者のための軽井沢キャンプに行ったりして、とても楽しかったです。
ターナーさん達には他の人にない暖かさ、包容力があって、母親のいない友人はミセスターナーをお母さんのように慕っていたのを思い出します。
私は信じたいけれど信じられないといった葛藤があったのですが、ある日、ある姉妹の家で聖歌を歌っていた時、自然に受け入れていました。それは詩歌130番「主よ、なが愛は何と深きかな、わが思いはるかに超ゆ」です。そして友人と二人で川でバプテスマされました。
その後上京し、教職について、同じ教会の兄弟と結婚して日々の生活を楽しんでいたのですが、52歳の時、突然、夫が召され、人生の悲哀に遭遇しました。初めは実感が伴わず、小説の中にいるような思いでした。
夜、すべての葬儀が終わり、一人になった時、ものすごい喪失感に襲われ、号泣しました。
その時、
「悲しんでいる人たちは幸いである.彼らは慰められるからである。」(マタイ第5章4節)
という聖書の言葉が心の中をよぎりました。
本当に不思議でしたが一瞬、私は深く慰められていました。
それからほぼ80年の人生となります。色々なことがありました。
今、心から言えることですが、キリスト・イエスと共に歩く人生は決して失望に終わることがない人生です。
なぜなら、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるからです。
聖書は、「すべて彼に信頼する者は、辱められることがない」と言っています。
ユダヤ人とギリシャ人の区別はありません.同じ主が、すべての者の主であって、彼を呼び求めるすべての者に、彼は豊かです.なぜなら、「主の御名を呼び求める者はすべて救われる」からです。 (ローマ10章10節〜13節)
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